近世において米というのは経済の基盤であるため領主層にとっては自らの収入に直結するものであった。そのため酒という産業は近世を通じて度々規制がかけられていたのである。
どうもこんばんは
ただ今満員電車で人生という荒波にも似た何かに揉まれているあおいです。
機材があるので人の目が痛いです。何人か絶対僕に殺意っぽい視線があるのですがそういうのは気にしたら負けだと思ってます
嘘ですすみません
今日はTwitterやらブログやらライブやらでちらほらでてる僕の音楽面以外こ事についてお話ししようと思います。
ブログタイトルがいつにも増してわけわかんなかったのはそのためです。
僕の研究内容を紹介するコーナーです
僕は大学で歴史を勉強していまして、日本史の近世史(江戸時代)を研究してます。
江戸時代つっても色々あるわけで、勿論全て隈なく研究してるわけではないです。
僕が研究しているのは江戸時代の「酒」について
いわゆる日本酒の研究をしています。
ただ、日本酒の造り方となると理系の分野に片足どころか腰まで浸からないといけなくなってしまうので僕がやってるのは日本酒の流通と消費
社会経済史の研究に当たります。
小難しく言うと、地域産業の展開やら資本主義の内発的発展やら色々あるんですがここではざっくりと
「地酒を誰が生産しどう流通しどのように消費されてたか」と考えてもらえれば大丈夫です。
では知ってれば通になれる(かもしれない)
日本酒談義すたーと
日本酒の産地と聞いてみなさんはどこを思い浮かべます?
やっぱり新潟とか宮城とか北陸、東北あたりを思い浮かべますかね?
それとも獺祭とかの山口?
僕はやっぱり東北北陸あたりを想像します
ただ江戸時代はそうではなく、関西が一大生産地でした
具体的には伊丹や灘という所です。
この辺りは「上方(かみがた)」と呼ばれていました
当時上方からのお酒というのは「お上から下って来る」酒として「下り酒(くだりざけ)」と呼ばれていました。
現在でもある銘柄だと剣菱や男山がそれに当たります。
では関東はどうだったのか
これが酒に関しては上方に押されぱなし、押されるどころかマウントとられてタコ殴りにされてる状態と思ってもらえれば大丈夫です。
関東酒は上方の下り酒に対して「下らねえ酒」と呼ばれて馬鹿にされてたみたいです。
くだらねえの語源はコレみたいですよ
じゃあ、どのくらい違うのかというのを酒造家の生産量で見てみるとその差は歴然です。
酒の生産量は「石高」で表されます。そして当時は「酒造株(しゅぞうかぶ)」という免許のようなものを持ってないと酒の生産は出来ませんでした。
そしてその株には個人が生産してもよい量が決められてました。
関東の酒造家は50石や100石程度、多くて1000石あたりです。ちなみに1石は180リットルです。
対して上方の酒造家は
3000石や5000石、8000石の酒造家もいました
もうね量が違いすぎる
こっちがスライムとドラキーのパーティでエスタークとデスピサロやらに挑むようなもんです。
そりゃあ質も量も勝てず下り酒がどんどん関東に入ってくるようになります。
この西の勢いは凄まじく、通常村の中にある1つの家が酒造りを行うのですが中には村単位で酒の醸造に特化した場所も発生し、酒をつくる家、桶を作る家、酒を運ぶ家など分業化が進んでいきます。
そして新酒を運ぶのも全力、新しいもの好きな江戸っ子へいち早く自分達の酒を売るため新酒を江戸へ運搬するのはさながらレースそのもの
当時は車なんてものはないので船で運ぶのですが、新酒番船と呼ばれる船が西宮と大阪に配置され太鼓などが打ち鳴らされる中一斉にスタートします。
関東でも幕府主導の「関東御免上酒」というブランドを作ろうと画策するのですが開始直後から不評が続出する事になります。
「御免のかひなし」と言われたりもしてます。
つまり御免という幕府お墨付きを持ってるのに大したことないという事です。
美味しくなかったんですね笑
なんでここまで差がついたのか
一説によると酒を作る際に最終行程で「火入れ」という作業があるのですが、それを関東の酒造人は体得できなかった、からとも言われてます。
他にも色々理由はあると思います。
生産するための地盤であったり、長年築きあげた販売網であったりと大手は大手である理由があるはずなので
しかし現代では関東でも美味しいお酒はいっぱいあります!
僕の地元の千葉でも抜群に美味しい酒があります。梅一輪って言うんですけどおススメです。
そんなこんなで今日は僕の研究内容のさわりにもなるかわからないですけどその端っこを紹介しました!
もし好評なら今度はもう少し踏み込んでお話しします笑
小難しい話でしたが読んでくれてありがとうございます!
それではまた!
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